私は働くのが嫌いだ。
こう発言すると
「働くのが好きな人間なんて、そんなにいないよ」との回答が飛んでくるが、
私の場合は仕事が嫌いなだけでなく、「社会不適合者」のレッテルを貼られている。
実際、就職が決まったのは卒業間近だったし、せっかく新卒で入った宝飾店は一か月でクビになっている。
大した特技も才も美貌もない私は現在、なんとか生活してけるだけの収入を図書館司書の職で得ている。が、そんなお給料のほとんども奨学金や車のローンで消えていき、毎月、微々たる貯金こそしているものの、私の暮らしぶりは慎ましく地味だ。
「わーん。もっと美味しい物を食べたいし、お洒落だってしたい。何より、海外旅行に行きたいよー」
大した仕事をしている訳でもないのに、ストレスでフラストレーションが溜まり、欲望ばかりがムクムクと膨れ上がっていく。
だが人間とは面白い物で、短大時代に心理学の先生から教えて貰った事だが、人は新しい環境に飛び込むより、辛くとも現状維持を無意識に選んでしまう生き物らしい。
今、身を置いている職場も仕事内容も嫌だけど、新しい事を始めるのも面倒臭い。
なら多少は嫌でも、我慢している今の暮らしの方が楽なんじゃない?と。
それに、いくら現状がつまらない物だとしても、当時の私には恋人がいた。
彼は永平寺出身のお坊さんで、私より年は十歳年上であった。
坊さんは収入もあるし年上という事で、デート代はいつも気前よく支払ってくれたし、もし結婚したら私には専業主婦をさせてくれると言っていた。
すっかり私は、包容力のある年上の彼氏の存在に安心しきっていたのである。
「まーね。今、毎日が全然楽しくないけど、一生続く訳じゃないしー。お給料も少ないけど、土日は大体、彼とのデートで予定も埋まるから交際費は掛からない。欲しい物もプレゼントしてくれる。どーせあと二、三年で家庭に入れるなら、今の仕事で我慢するかー」てな具合に。
しかし人生とは予想通りにいかないもので、私の人生設計はことごとく壊される事となる。「結婚確実」と思われていたお坊さんと、破局してしまったのである。
この失恋は自分史上最大で、私は最低でも半年間、立ち直れずにいた。
「まさか、そんな・・・」
愛する人を失ったショックは勿論だが、ここまでショックを受けるのは、やはり生活リズムが大きく変わってしまったからだろう。
今までのウィークエンドには「デート」という華々しい予定が待ち構えていたが、別れてしまった後は「無」だ。
破局した男女の多くは、このポッカリと空いた休日の埋め方に、別れた当初は戸惑うと言う。
今までは、仕事で嫌な事や悩みがあっても、坊さんと飲みに行きセックスしていれば、大半の辛さは水に流れていくような気がした。
アルコールで酔いが回り、そのトランス状態でオーガズムに導かれると、脳と体がリセットさせられる。「食欲」と「性欲」を満たせば、ホルモンは安定し鎮静化するのだ。
が、フリーの身となると、その二つを満たすのは難しくなる。
一人で飲んでも虚しいばかりだし、自慰もみじめな事この上ない。
何より、私を安心させていた「坊さんの妻」という未来ビジョンがすっかり消え去ってしまったが為に、「これからどうなるのだろう?」という不安感が霧のごとく私を包んでいる。
先の見えない心配故に、結婚資金にと貯めていた貯蓄を更に増やす事しか出来ない。
次の恋人も出来ないのに、気楽にお金なんか使えない。だってだって、この先一生、独身だったらどうするの?
こうして、彼氏に連れ出して貰っていたが為に、まだ少しは外出していた私はすっかり引きこもりとなり、見た目は益々地味になった。
誰か男性と出歩く訳でもないのだから、着飾って仕方ない。
こんな不健康な思考に、私は陥っていたのである。
無味乾燥。
そんな四字熟語に尽きる日々。
仕事はやっぱり面白くない。寧ろ前より辛い。
友人以外に話し相手がいないんだから。
しばらくは、徳永英明のレイニーブルーを聞きながらメソメソするような日々を送る筆者であったが、ようやく吹っ切れた去年十月、初海外旅行を試みた。
いつ結婚するかも分からないのに、銀行にお金を眠らせておいても仕方ないだろうと、思い切って多額の貯金を下ろしたのだ。
「これは結婚式に使う、大事なお金なの」
そう思い、今まで決して手を付けないようにしてたお金だった。
だからこそ、下ろすときには冷や汗が滲んでいたし、足が震えていた。
何か触れてはならない禁忌を覗いているようだったし、パンドラの箱を開けた心地だった。
が、いざ大金の現ナマを手に包むと、その金額に興奮させられ高ぶった。
「こんなにあったんだ・・・」
それは本来なら、式場や料理や、嫁ぐ己を着飾るドレスへと代わるお金であるハズだった。
が、嫁ぐ相手がいないなら、瞬発的な楽しみへと代えてしまおうと、私は一人で上海ツアーへと旅立った。そして予想以上に上海の旅は、私にとって蠱惑であり、甘美であった。
果たして私は、こんな贅沢を味わって良いものなのだろうか?と、目に映る全てや、舌の上で溶けていく美食達に恍惚となりながら、何度も何度も自問した。
「美味しい、美味しい」
円卓にて出された中華料理たちは、どれもこれも味が濃く、独特の風味がして美味しい。
日常の食事と言えば、自炊かファミリーレストランが主の私が今、こんなに美味しい物を頬張っている。それも自費で。
以前なら、寄りかかる存在であるお坊さんに出して貰っていたのに。
私は笑っているだけで食べられたのに。
肉体から生じる快楽を与える見返りとして、食事を奢ってもらっていた、か弱い女だったのに。
「貴女、美味しそうに食べるねぇ。見た感じ、海外慣れしてるようじゃないか」
同じツアー客の一人が、紹興酒の入ったグラス片手に微笑んで私に語り掛ける。
恰幅の良い紳士で、身に着けている調度品も上質なブランド品ばかりだ。
この男性と出会ったのはこのツアーだが、雑談したりして打ち解けている間柄だった。
「いえいえ・・・。私、海外旅行って初めてなんですよ。パスポートだって今年に入って取ったんです」
アツアツの水餃子をフーフーと口で冷まし、話し終えると口に含む。
ジュワッと肉汁が校内に広がり、ああ、舌つづみを打つというのは、こういう事なんだなと体感した。
「へー。貴女、堂々とした印象だし、語学も出来そうだから、もう色んな国に行っているかと思ってたよ。なぁ」
「そうだね。お嬢さん、海外が似合うよ」
紳士の旅のパートナーである優男風の青年も、そんな風に私を評価した。
「語学が出来て、色んな国に飛び回れる行動力を持つ女性」
そんなイメージが自分の表面に映し出されているとしたら、くすぐったいが嬉しい。と同時に、そうでないコンテンツの自分が酷く恥ずかしく、惨めだった。
わたしね、お坊さんのお嫁さんになる事しか考えてなくて、特技もお金も、なぁんにもないのよ。
そんな劣等感を消そうと、紹興酒を流し込む
「あはは・・・。私、英語もロクに話せないんです・・・」
紹興酒のトロミは私を癒し、悲しみを緩和してくれた。
紳士の背景に見える、窓から見える上海の夜景がただただ美しい。
旅行に来たんだから、英語が話せないコンプレックスなんて醜い感情には出会いたくない。
ただただ幸福に浸っていたかった。
「いやいや。お姉さん、まだ若いもん。まだ出来るさ」
そう言って紳士は微笑み、白い歯がキラリと光った。
そうだろうか?
短大時代にでさえ、出来なかった事が、これから出来るようになるだろうか?
酔いながらも、そんな疑問を胸の根底に、夕食を終えると我々はホテルに戻った。
「やっぱり綺麗ね・・・」
ホテルの高層窓から見える夜景は、レストランとは比べ物にならない位、圧巻である。
下界には一面の輝かしい宝石箱が広がっていて、その眩しさには、ただただ溜息が出る。
こんなに美しくて、まだまだ長い夜だというのに、私はこの部屋で一人だ。
やる事と言えば、この景色を前にお酒を飲むくらいしかない。
酔いもあって私は、シルクセンターで買ったチャイナドレスを着て、大窓の前で脚を組み、紹興酒を飲んだ。
さながらそのシュチュエーションは、中国を牛耳る女社長の夜の一時といった所だろうか。誰かが見ていればアホ丸出しだが、一人だから良い。無礼講である。
それに、これは、今後の決意表明に対する、儀式でもあるのだから。
「こーゆー景色を前、見たのも、坊さんとだったなー・・・」
紅潮した頬で、ボンヤリと、昔の恋の記憶にしばし身を委ねる。
彼が予約してくれた名古屋の部屋も、見事な夜景を一望出来るものだった。
あの頃の私には決して想像できなかっただろう。
自分の財で、自分の力で、こういった「美しさ」を手に入れられるとは。
また、そういった「美しさ」は、誰かに与えられるより己の手で掴みに行く方が、何倍も血が熱く燃えるという事も。
「これからしばらくはね、こういった物は、自分で買わなきゃいけないのよねー」
チャイナのスリットから覗く脚をヒラヒラと揺らし、この度、旅行で使った予算を頭でソロバン弾きする。
三泊四日上海の旅は、中々の金額である。が、それに見合う楽しさと魅力を兼ね備え、私を十二分に楽しませた。
これからも、こういう物を手にしたいのなら、私は働かなくてはいけない。
誰かの妻になるという、安寧な日々がしばし手に入らないのならば、私は意を決して変わらねばならない。
文字通り、娯楽のパンドラの箱を開けてしまった私は、以前の節約に身を徹する女では決していられなくなってしまった。
だって現に、身に纏っているチャイナドレスだって、二万円もする代物なのだ。
シルク百パーセントの、黒地にデカデカと牡丹の刺繍が施された、よく言えば艶やか、悪く言えばケバケバしいドレス。
でもそれで良いのだ。
結婚という括りで、誰かの所有物となる花嫁の衣装が純白ならば、己の意思で生き抜こうと決めた独身者の衣装は、この位、派手ででなくっちゃ。
プロフィール
六条京子
信濃の国在住。A型長女だが、基本、適当人間。
趣味は読書に海外旅行。人生の半分以上を漫画喫茶で過ごしている