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バカの観察がやめられないたった一つの理由

「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである」

とは、文豪レフ・トルストイの名作『アンナ・カレーニナ』(工藤清一郎訳)の冒頭の一文である。
不幸というものが、人間の愚かさゆえに招かれるものであるなら、人間のバカさ加減もまた、多様であるということだ。

 

私はネットウォッチングが大好きだ。
私は、ネットという窓を通じて、まるで小説を読むように人間を観察している。

 

私にとって、ネットでお見かけする賢い方々は“話を聞く”対象で、ネットで見つけてしまうバカ者たちは“動向を見守る”対象だ。

 
古典文学に出てくる、過去に生きた人間たちの在りようや罪を描いた物語も面白いが、今を生きている人間たちが赤裸々に発信している愚かさと狂乱もまた、興味深くて惹きつけられる。
本のページをめくるように、私はスマホ画面をスクロールする。

 

インフルエンサーになりたい人、ブログで稼ぎたい人、情報商材で儲けたい人、好きを仕事にしてキラキラ輝きたい人、ハイヤーセルフと繋がって自分の使命に気が付きたい人、宇宙レベルで設定変更してお金に愛されたい人、子宮の声を聞いて自分の思うままに生きたい人、龍と契約した人、天からヴィジョンが降りてきちゃった人、などなど。

愚かさとは実に多彩で、バカにはバラも及ばないほど多種多様な種類がある。

 

その一方で、共通点も多い。

彼らのほとんどは、何の才能もないのに自分を認めてもらいたくて、何のアイデアもないのに成功者になりたくて、何の努力もしないのにお金持ちになりたくて、何の魅力もないのに愛されたいのだ。

その厚かましさは5歳の幼児のように邪気がなくて、ほぅっと感心させられる。

大抵のバカは「ほぅ、ほぅ、ほほぅ」と微笑ましいレベルなのだけど、中には「こいつぁ、すげぇ!」と思わず下品に叫んでしまいたくなるほどのバカの怪物がいて、彼らがバカの王様になる。いわゆる、その道でカリスマと呼ばれる人々のことだ。
 

バカが作るグループのボスとして君臨するのは、賢い人ではない。突き抜けたバカなのだ。
少数の非凡なバカが大勢の凡庸なバカを圧倒し、「お前らは仲間だ!ついてこい!」と従わせ、そしてバカの王になる。まるで海賊王を目指す少年漫画のように。

 

バカの王様になるには複数の資質が必要だけれど、一つだけ、「これだけは絶対に欠かせない!」というものを選ぶとするなら、「恥を知らない」という生まれながらに備わった性質だろう。
上品に生まれついた人間には、あるいはごくごく普通に生まれ育っていてさえ、いくら覚悟を決めたところでなれないのが「恥知らず」なのである。

 

頭と心にまともな感覚を持つ人にとって、己の恥に傷つかずにいることは難しい。
自ら世間に向かって恥をさらすことへの心理的ハードルは高く、うっかり恥をかく事態に陥れば自己嫌悪で小さくなり、いっそ消えてしまいたいと願わずにはいられない。
 

恥の感情とはまず、己の愚かさを自覚することで生まれ、そして恥を知ることで後悔し、後悔は精神を成長させ、成長することで人は賢くなっていく。

 

けれども、愚者の王国に君臨するバカの王様は生まれつき恥の概念もなければ、「恥じ入る」という感覚も欠落しているため、自分が愚かだということに気づきもせず、気づけないことに対しては後悔などしようもなく、よっていつまでたっても成長しない。ただ年月を経るほどに、少しずつ人相を悪くしながらバカの度合いを深めていくだけ。

 

深みのあるバカは自分よりも浅いバカを従わせて、お金を巻き上げ、踏ん反り返っている。尊大な振る舞いがどうにも滑稽で笑える彼らは、バカの中では王様だけど、それ以外の人たちにとっては道化師だ。

道化が居ないとネットサーカスは物足りない。観客あっての見世物じゃないか。

さぁ、炎上というスポットライトを当ててやれ。

 

とはいえ、私のような観察者にとって、バカの喜劇王たちのサーカスは入場無料のエンタメだが、観察者でなく一介のバカとして彼らを仰ぎ見る人にとって、彼らの存在は災厄だろう。

力強いバカっぷりに憧れてしまい、自分も同じステージに立とうとすれば、とんでもない額の出演料を払わせられるのだから。

サーカスのステージに上がり、無数の観察者たちに見られ、笑い者にされるための出演料は、数万円だったらラッキーで、数十万円ならマシな方。数百万円もの大金をドブに捨てたとあっては流石に同情を禁じ得ないし、お金だけで済まずに家庭が壊れ、家族まで失ったケースでは他人事ながら憤りを覚えずにはいられない。

 

けれど、観察者がどんなに腹を立てても、当事者には届かない。

「あなた、騙されてますよ!」
「あなたはただの教祖たちの養分です!」
「そんな教えは非科学的です!」
「言動が矛盾してますよ!」
「目を覚まして!」

と、胸を痛めた多くの人たちが観客席から声を枯らして叫んでいるのに、ステージ上の者たちは歓声を浴びていると誤解してしまう。

哀しいけれど、「己の恥を知る」のは本人だけができること。他人が「恥を知らしめる」のは無理なのだろう。

 

傍若無人に振る舞って他人に迷惑をかけること、果たすべき責任を放りだして身近な人たちを悲しませること、何よりインターネット上に消えないデジタルタトゥーを刻むこと。

それらは全て恥ずべき過ちなのだと、自分自身で気がつかなければ、本当には救われないのだ。

 
天然恥知らずの王様にそそのかされて、それまでごく普通の良識と常識のある奥さんだったり、お嬢さんだったり、青年だった人たちが、次第に恥をかなぐり捨てていく様子には思わず目を覆ってしまう。

けれど、覆った指の隙間から覗いてしまう。一人の人間がゆっくりと確実に不幸になろうとしている。これから起こることはすでに予想がついているのだけれど、答えを確かめずにはいられなくて、私は対象から目を離すことができない。

 
憐れなおバカさんは、バカの王様から、

「いいですか。匿名アカウントは卑怯者です。まずは実名顔出しをしましょう。そうするだけで、あなたはインターネット上でユニークな存在になれます」

と言われ、手始めに世界に向かって自分の顔と名前を公開してしまう。

 

次に、

「あなたのことを知ってもらうために、自分のありのままを全て公表するのです。そうしたら、あなたのファンが現れますよ」

と指導され、自分のことを洗いざらいブログやSNSに書き綴り、大切な家族までコンテンツとして登場させてしまう。

けれど、一向にファンは現れないし、仕事はもらえないし、お金も入ってこない。
「おかしい」と疑問を感じ始めると、王様にお叱りを受ける。

 

「あなたは自己開示が足りない。努力が足りないから望みが叶わないのだ」と。

そこで、憐れな愚か者は自分のパートナーとの関係、親との確執、子供の障害までもを語り出す。それでも効果がないと、ますます露悪的になり、しまいにはベッドの中のことまでさらけ出すのだ。

 

そこまでしたのに、仕事は軌道に乗らず、お金は出ていくばかりで、人が羨むようなパートナーは待てど暮らせど現れず、贅沢な生活には一向に手が届かない。

そればかりか、友人たちには距離を置かれ、家族は去り、子供まで奪われる事態に陥る。

 
『アンナ・カレーニナ』の最後は悲劇的だ。アンナの生涯は短い間まばゆく輝き、汽車へ身を投げて死ぬ。

 
ネットの中には、アンナのように若くも、美しくも、魅力的ですらない愚か者たちの不幸の物語が山ほど転がっている。

けれど、王様に仕えていたバカがある日自らの愚かさに気づき、己の招いた不幸を直視した時、そこから再生の物語が始まる。
古い文学は悲劇に終わっても、今を生きる人の物語は希望とともに続くのだ。

 

さて、そろそろこの記事のタイトルである、私が「バカの観察がやめられないたった一つの理由」をお答えしよう。

 

それが楽しいから。

 

ただ、それだけ。