先日上司から、「本店の業務応援に行ってほしい」と言われた。
現在の職場はアウトソーシングで、クライアントは有名な大企業。その本店応援は大事な業務なのだと説明された。
私には荷が重いと申告したが、「週に一度だから、気負わずに」と付け加えられ、「それなら」と引き受けた。
応援とはいえ、世間で名の通った企業の本店に勤務できるのだから、人に話す時は聞こえがいい。
さらに、同僚の中から選ばれたという優越感も感じた。
自分自身を評価してくれたのだと思った。
応援初日はひどく緊張した。
四十一階建てのビルを見上げて、めまいがした。
一階の受付までは入れるが、そこから上の階へはセキュリティーカードが要る。
普段勤務している部署の気楽さとは雲泥の差だ。
迎えに来てくれたセクションの責任者は、若くてオフィスカジュアルが良く似合う美人だった。
ひどく緊張しながら挨拶をした私に、柔らかい笑顔をくれた。
案内された部署はビルの二十二階で、見晴らしは抜群。
その景色を見るだけで、「選ばれし者」といった錯覚をしそうになる。
入室するとすでに二人がいた。
先の責任者を含めて基本、三人で業務を行うとのこと。
それほど忙しくなく、難しくもないと説明された。
それは有難いと思った。
年のせいにはしたくないが、残念ながらここ数年ですっかり覚えが悪くなってしまった。
四十代後半になるとこんなにも脳が劣化するのかと、情けなくなるほどだ。
新しく覚える事柄は、できるだけ簡単であってほしい。
「大丈夫ですよ」と責任者は微笑んだ。
それは本当だった。
業務はいたってシンプル。
初日、極端に緊張していたから何度か注意はされたが、この劣化した脳でもすぐに覚えられる内容だった。
これなら務まるな、と思った。
ほくそ笑んでもいた。
週に一度とはいえ、本店勤務。しかも普段行っている業務よりはるかに簡単。
「これはおいしい仕事だ」と思った。
これなら週に一度と言わず、毎日でもいい。
いっそのこと、異動させてくれないかな、とまで思った。
そう思って、ふと疑問が出た。
なぜまた新たに応援者を作るのだろう、と。
その部署は初日に会った三人が基本。
繁忙期や誰かが休む時にだけ応援が要る。
その応援は、今まで他部署から慣れた人が行っていた。何人もが行っていた。
その人たちが辞めたわけでもない。なのになぜ、不慣れな私を差し向けたのか?
理由は応援二回目ですぐに判明した。
原因であろう女性は、私と同年代か少し上。
オフィスカジュアルではなく、きっちりとオフィススーツを着込んでいる。
応援二回目の私に、彼女はとうとうと語ったのだ。
この部署がいかに本店業務の中でも重要であるかを。
クライアント企業の顔に傷を付けてはならない、失態は許されない部署なのだと。
その迫力、圧力は凄まじいものがあった。
この仕事に対するプライドの高さにたじろいでしまった。
彼女から見れば、私の不慣れさが歯がゆいのだろう。
一件処理するたびに、
「ここはね」
「そうじゃなくて」
と、いちいち細かなチェックが入る。
確かにおっしゃる通りなのだ。
それは重々分かるのだが、とにかく彼女の押し付けが強すぎて閉口してしまう。
閉口するのは私が不慣れなせいと思っていたら、他の二人が苦笑しているのが目に入った。彼女のチェックはあの責任者の女性にも行われるのだ。彼女にとって立場は関係ないらしい。
立場よりキャリア。
彼女は立ち上げから居る大ベテラン。
本当に何でも知っているから、責任者といえど、彼女には逆らえない。
彼女に意地悪されたら、業務が回らない。
それを分かっているから、みな引きつった笑顔で彼女に従う。
彼女を称える。
彼女はまさに、女王様なのだ。
けれど、彼女はそのことに気づいていない。
彼女は自分の正義感、親切心でもって、アドバイスしてくるのだ。
彼女の表情にも口調にも悪意はない。意地悪をする気もないはずだ。
口うるさく注意してくる彼女を見て思った。誰かに似ている、と。
女王様然とした態度。
誰なのか、すぐに分かった。
「私だ・・・」
前の職場での私の姿だ、と。
前の職場には十四年勤めた。
好きな仕事だった。情熱を持っていた。
それは始め、自分に向けてのものだった。
人一倍働いたし、雑用も積極的に引き受けた。
自分がそうしたかったから、ただそれだけだった。
努力とも思っていなかった。
何もかもが、当然と思っていた。
それを周囲が、上司が評価した。
評価されて、素直に嬉しかった。
期待などしていなかったけれど、評価されたことで報われた気がした。
そのままさらに数年勤めたら、新人研修を任されるようになった。
誇らしくもあったが、責任も感じた。
下手に教えたら、使えない社員になる。
私の教え方で決まるのだと思った。
だから力が入った。
何も知らない新人には、教えたい事がたくさんあった。
新人はみな、「はい」と返事をして私に従った。心地よかった。
私がきちんと研修したから、一人前の働きができるようになったのだと思った。
本人たちからも感謝された。
周囲や上司たちからは、「さすが」と称賛された。
そうしていつしか私は、「研修の要」と言われるようになった。
まんざらでもなかった。いや、悦に入っていた。
すると、周りの勤務態度が気になりだした。
もっと効率よいやり方があると、アドバイスしたくなった。
実際した。たくさんした。
私以外の人が行う研修のやり方に不足を感じるようになった。
もっと伝えてほしいことがある。
「ちょっといいかしら」
研修担当者を押しのけて、私が教えた。
私が持っている知識、やり方をみなに教えたかった。
その方が良いから。
私が培ってきたノウハウを、みなに伝授したかった。
私が前に出ると、みなは後ろに下がった。
後ろに下がって頭を下げた。そんな感じだった。
まるで女王が大広間にお出ましになり、得意げに自分の思いを語るがごとくだ。
それに対して、異を唱える者は誰もいない。
だから女王は気づかない。周囲から自分がどう思われているのかを。
女王だった私は気づけなかった。
気づいた時、大広間には誰もいなかった。
私だけ一人、取り残された。
「勝手に言わせておけ」
それが周囲の本音だった。
それだけなら、まだ私は職場に留まれたかもしれない。
私が原因で辞めてしまう子が出るようになってしまったのだ。
私の研修が、指導が嫌だと言う新人が増え、私は持て余されるようになってしまった。
何がいけないのか、私には分からなかった。
親切に、事細かに教えただけなのに。
自分が以前に間違えたこと、困った事を避けられるように、アドバイスしただけなのに。
追われる原因が分からぬまま、私は十四年勤めた職場を退職した。
せざるを得ない状況になってしまった。
辞めてもなお、沸々とした思いを抱えていた。
でも今、その理由がよく分かった。
いちいち注意される側になってみて、痛感した。
女王とは『うっとおしい』存在なのだとやっと分かった。
そうして合点がいった。
今まで何人もの応援者がいたにもかかわらず、なぜ今回新たに不慣れな私が行かされることになったのかを。
みな女王が嫌で、応援を断るようになったからなのだ。
女王が勝手に女王然としているのはまだいい。
自分の価値観・プライドでもって立ち振る舞うのもいい。
自分を律する姿は立派で美しいとも思う。
だがそれを、人に押しつけてしまったら、ただの暴君だ。
女王の立場は絶対だ。
女王の発言には逆らえない。
黙して耐えるか、立ち去るか。
みな、心の中で思うのだ。
ため息交じりに思うのだ。
『女王は要らない。』
プロフィール:
リオカ
百貨店や映画館勤務を経て、現在はコールセンター受付業務。
女の園で長く勤めているため、女同士の陰湿な感情に敏感。
「出る杭は打たれる」を痛感し、今はひっそりと生息中。
中学生の頃から日記を書く習慣があり、独り語り的な文章を書くのが好き。
いつか作家に、という中二病的妄想を捨てきれずにいる。