『危ない男』は、意外と身近に現れる。
しかもその『危なさ』が、最初は分かりづらい。
情熱的と思い込み、懐くとつきまとい。それらは本当に紙一重だと思う。
おかしなと思った時には、もう遅い。
例えるなら綿菓子。
私が割り箸で、相手が綿あめ。
初めは全く気付かない。フワフワと周りを漂い、かすかに絡みついてくる。
かすか過ぎて、絡みつかれている事すら分からない。
けれど、繰り返し絡みつかれていくうちに、大きな綿になって芯を覆う。
見えないくらいに芯を覆う。
覆われた時に割り箸は、身動きができなくなっている。
二年前に出会ったK君がまさに、綿あめのような『危ない』男の子だった。
今の会社に転職したのが二年前。この転職はとても辛かった。
仕事内容そのものが難しかったし、二か月に及ぶ研修がまた、ひどく辛かった。
研修担当者の誰もが高圧的で怖かったのだ。担当者たちの怖さは、震えあがるものがあった。
同期は三十五人いたけれど、怖さと仕事内容の難しさに、早々と音を上げる者が続出した。
研修開始から一週間で八人辞め、二週間後にはさらに七人が辞めた。
残り二十人。毎日怯えながらの研修を受けていくうちに、同じ苦しみを味わっている者同士で仲良くなっていった。
研修中だから全員同じ時間に終業となる。
そこからみなでお茶やご飯を食べに行くようになっていった。
その中にK君がいた。
K君は二十五歳で、眼鏡をかけた男の子。
比較的無口で、外見からは、こういった集まりが嫌いそうに見えた。
けれどK君は、必ず集まりにやってきた。
初めはみんなの後ろを歩き、席に着いても発言などはせず、ひたすらみなの愚痴を笑って聞いていた。
大人しいK君は、『危ない』どころか好感度が高く思われた。全員がそう思っていた。
おばさんが多い職場で若い男の子は貴重で物珍しく、なぜこの職場に来たのかなど、自然と話題はK君に集まった。
K君は京都にある有名私大卒だった。
司法書士志望で、その勉強を優先したくてこの会社に来たと言った。
そんなK君を、みなが称賛した。私もした。
これがいけなかったのだろうか?
加えて、私は他の人よりテンポや動作がやや遅い。
同じ愚痴を言い合うにしても、悪口度合いが甘いようだった。
それがK君にはお気に召したのか?
庇護欲を掻き立てたのか?
連れ立っての帰り道、気が付けばK君が横を歩いていた。
歩きの遅い私に歩調を合わせながらK君は、
「明日からも頑張りましょうね」
と言ってきた。
あの怖い研修担当者たちに私が一番タジタジしているからそう言ってくれているのだと思った。
K君のことを、優しい子だと思った。
心から「ありがとう」と言った。
「みんな味方ですから」とK君は続けた。
K君を含め、みな良い同期だなと思った。
私の歩調が遅いから、徐々にみなと離れてゆき、いつの間にか私とK君は二人きりになっていた。
「じゃあここで」と手を振ると、
「最寄り駅まで送りますよ」と言われた。
これをこの時、断らなかった私がいけないのだろうか?
でもあの雰囲気で、日々の研修でメンタルが弱っていて、同じ辛さを味わっている者同士で、なおかつうんと年が離れている身で、この申し出を警戒できるだろうか?
一緒に電車に乗り、私は無防備にも最寄り駅までK君と二人で帰ってきてしまった。
改札を出る時、
「また明日」
そう言って、改札の中からK君が手を振ってきた。
若さを十分に感じさせる、爽やかな笑顔に見えた。
わざわざ遠回りさせてしまって悪かったなと思いながら、久々に『女』扱いされた事に対して、多少の喜びを感じてしまった。
これが、スキというのだろうか?
私はK君にスキを見せてしまったのか?
それとも『危ない男』はスキのある女を見分けるのがうまいのか?
翌日からジワジワと、K君の私に対する態度が変わっていった。
朝の挨拶がまず違った。
みなにはきちんと、「おはようございます」と言うのに、私に対してだけ、「おはよう」になった。
「ん?」と思った。そんな馴れ馴れしい言葉遣いをする子ではないと思っていたから、内心大きな違和感があった。
それは間違ってなかった。
研修が明け、実務に就いてみると、研修よりもっとハードで、電話越しにお客様から怒鳴られる毎日。午前中でギブアップしそうなメンタルの私に対して、K君はさっと近寄ってきて、「僕がついてるから、大丈夫」と言ってくるようになった。
「みんな」ではなく、「僕が」になっていた。
しかも大丈夫と言う。
同じスキルの新人同士。
何の根拠があっての大丈夫なのか?
疑問符か頭に浮かんだけれど、それを突っ込むことも、吟味する余裕もその時の私にはなかった。目の前の仕事で手一杯だったのだ。
そのうち、一日が終わるとロッカーの外でK君が私を待つようになった。
「駅まで一緒に帰りましょう」と言う。
私は深く考えもせず、申し出をそのまま受けた。
K君が言った『駅』とは、会社からの最寄り駅ではなく、私の最寄り駅の事だった。
帰宅ラッシュのせいで、毎回ひどく混んでいた。
一本遅らせようと提案するも、「次も混んでますよ」と言って、K君は私の二の腕を掴んで電車に乗り込むのだ。
ぎゅうぎゅうに押し込められた電車内で、さらに次の駅で人が乗り、K君と抱き合うような格好になる。いや、確信犯的に私はK君に抱き締められるのだ。
これはマズいという思いと、この年の差でまさかな、という思いが交差した。
結果は、マズいの方だった。
就業前に必ずK君が、「一緒に帰りましょうね」と言いに来るようになり、それをかわして先に帰ると、翌日は必ず怖い顔をして、「どうして先に帰ったんですか!」と詰め寄ってくる。
ついには仕事を先に切り上げて、私の就業を待つようになっていった。
そして必ず混んだ電車に無理矢理乗り込んで、身体を密着させてくるのだ。
こわごわ見上げたK君の顔は恍惚としていて、何を妄想しているのか、考えたらうすら寒くなってしまった。
K君はもしかして『危ない』のでは?
やっとそう思った私は、同期の中で一番仲が良い子に相談した。
当然のように驚き、「K君、良いじゃない。若いし将来有望かもよ」と、むしろお勧めされてしまったが、とりあえず怖いから一緒に最寄り駅まで帰ってほしいと頼んだ。
そして無事にK君に捕まらず、その子と一緒に私の最寄り駅まで帰ってきたら、改札の外にK君がいたのだ!
改札の外から、こちらを凝視していた。眼鏡の奥の目が光っているように見えた。
怖さで震えた。
一緒に来てくれたその子もさすがに引いた。
結局その子と再び電車に乗って、その日はその子の部屋に泊めてもらった。
「あれはヤバいね」と、さすがにその子も言ってくれて、気のせいではない事を確認した。
その翌日から、仕事中にもK君の視線を強く感じるようになった。
恋慕の色というよりは、裏切った事への怒りの色に見えた。
さらにK君の付きまといはエスカレートしてきた。
私を待つためにK君は終業時間より必ず早く仕事を終わるようになった。
タイムカードもその時刻で打刻する。それは勤務時間を破っている。当然注意されるのに、
「大事な用があるので」と言って、改めなかった。
そして必ずロッカー前で私を待つのだ。
怖かった。怖かったけれど、私はもううら若き乙女ではない。
はっきりさせなければと思った。
その日も、当然のような顔をして並んで歩くK君に向って
「もう待たないでほしい。一緒に帰る理由がない」
と告げた。
それを聞いてK君は
「僕にそんな強がりは必要ないでしょ」
と言ってきた。
「僕が守ってあげますから」
とも言われた。
私を見ながら。
でも、K君が見ているのは私ではないと悟った。
私を見つめる目は、さながら二次元のキャラを愛でるような目つき。
不意に肩を抱かれた。そうして近づいてきたK君の唇。
驚きと嫌悪でとっさに顔をそむけたら
「大丈夫。怖くないから」
と言われた。
「僕が教えてあげますよ」
と続いた。
半ば突き飛ばして走って逃げた。二十も年下の男の子に、心底恐怖を感じた。
眼鏡の奥のK君の目。
それは私を通して別の人を見る目だった。
K君が作り上げた理想の人。
K君の頭の中にいる妄想の人。それを私に当てはめてK君は見ている。
私はK君の妄想を具現化する入れ物にすぎない。
見た目では分からなかった。
むしろ、頭の良い、ごく普通のイマドキの男の子だと思っていた。
けれど違った。
K君の『危なさ』は、綿あめのようで、気づいた時には息もできないくらいに締め付けられてしまうのだった。
この事を同期の仲良しに打ち明けると、「駅での待ち伏せとか、私が証人になってあげるから」と言ってくれて、上司に相談することになった。
上司が私の話をどこまで信じてくれたかは謎だ。
ただ、K君の勤務態度、勤務時間の守らなさは問題になっていたようで、相談後ほどなくして、K君は別部署に異動になった。
それを機に、ぱたりとK君の姿は見なくなった。
K君を突き飛ばした事で、K君の妄想が覚めたのか、私が理想から外れたのか、異動になってから今日に至るまで、駅でも会社内でもK君の姿は見なくなった。
本当にホッとしたけれど、今でもたまに、最寄り駅や街中、会社の外で、似たような姿の人を見かけると、心臓がヒャッと飛び上がる。
いい年をしてこんなに怯えるなんて情けないけれど、妄想をうつしたK君のあの目を思い出すと、なかなか平常心ではいられない。
『危ない男』を見分けるのは難しい。
そして『危ない男』は、絡みつく割り箸を見つけるのがうまい。
もう二度と割り箸にならないように、用心しようと思う。
受け身な人は、用心した方がいい。
リオカ
百貨店や映画館勤務を経て、現在はコールセンター受付業務。
女の園で長く勤めているため、女同士の陰湿な感情に敏感。
「出る杭は打たれる」を痛感し、今はひっそりと生息中。
中学生の頃から日記を書く習慣があり、独り語り的な文章を書くのが好き。
いつか作家に、という中二病的妄想を捨てきれずにいる。