「令和」改元!今、改めて見つめ直したい「万葉集」と日本人
いよいよ元号が、「平成」から新しく「令和」に変わりました。新聞やテレビ等でも度々取り上げられているように、その出典は日本最古の歌集である「万葉集」。その万葉集の巻五、「梅花の歌三十二首」の序文を引用しています。
そもそも「万葉集」については、みなさんも学生時代、一度くらいは「古典」の授業で読んだことがあるのではないでしょうか?現在も万葉集は、一部表記が変えられながらカルタや百人一首の元歌としても良く話題にされています。
しかし、知っているようで、あまり知られていないのが万葉集の世界かも知れません。そこで今回は、新元号「令和」と万葉集の関係について、あらためてご紹介いたします。
1 「万葉集」とは何でしょう?
万葉集の成立と時代背景
万葉集がつくられたのは、有名な政変である「大化の改新」が起こった大化元年(645年)から、奈良時代の中頃「天平宝字(てんぴょうほうじ)3年」(759年)までの115年間と言われています。
編纂者は実際のところ、誰が編纂したのか今も分かっていません。「橘諸兄(たちばなのもろえ)」とする説や「大伴家持(おおとものやかもち)」とする説、またこの二人が中心となって編纂したとする説など様々です。
ただ、様々な階級の作者が万葉集には加わっていることから、たった一人で万葉集を編纂したとは考えにくく、その中心人物である大伴家持が最も有力候補として名前が挙がっています。特に、万葉集に収められている最後の歌が、家持の作品であることからも、その説が現在では有力です。
万葉集に込められた願い
万葉集には、万葉の時代に生きた人々の切なる思いや、かけがえのない願いが込められています。天皇から防人(さきもり)に至る一般庶民など、日本各地の様々な階級・階層の人々が作者として名前を連ねています。
その万葉集は全20巻から構成され、歌の数は約4500首。「万葉仮名」と呼ばれる独自の音訓漢字で表記されており、歌体も「短歌」「長歌」「旋頭歌(せどうか)」、「仏足石歌(ぶっそくせきか)」、そして「連歌(れんが)」の五体。これに「東歌(あずまうた)」と「防人(さきもり)歌」が加わっています。
万葉集の特徴の一つが、「男性的」であること。近世の国学者「賀茂真淵(かものまぶち)」はこれを「ますらをぶり」と言い表したほど、男性的でおおらかな歌風が万葉集には息づいています。
その一方、女性的で優雅な歌風として知られている「たをやめぶり」も、すでに万葉集には片鱗を垣間見ることができます。「額田王(ぬかたのおおきみ)」や「持統天皇」、「大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)」など代表的な女性歌人の歌がその一例です。
万葉集に収録された4500首の歌は、内容からそれぞれ「相聞(そうもん)」「挽歌(ばんか)」、そして「雑歌(ぞうか)」に分類されます。恋愛の喜びや切なさを歌ったもの、死者への鎮魂や旅先や宴の席で感じた想いが、率直に込められた歌集が万葉集です。
新元号「令和」と万葉集の関係
平成の時代が終わりを告げようとしている中、官房長官から新元号の由来が「万葉集」であることが発表されます。出典は「万葉集」巻五、梅花(うめのはな)三十二首の序文から引用。
「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す。」
「令和」の考案者であると取り沙汰されている文学博士の「中西 進」氏は、その著書「萬葉集 全訳注 原文付」の中でこう説明しています。
「時あたかも新春の好き月(よきつき)、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉(おしろい)のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている」
また、安倍首相も談話の中で、令和という元号に込めた意味を「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」と説明しています。さらに、元号の出典をこれまでのように中国の古典とせず、万葉集から典拠した理由についても「幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書」であると述べています。
出典を中国の古典に求めなかったところに、日本の国としてのプライドがうかがえるエピソードです。戦後の呪縛から解き放たれ、日本人としての自尊心や国を愛する心を尊びたいという、そんな願いが込められているのではないでしょうか。
2 「万葉集が後世に与えた影響」
万葉集に収録された代表歌
万葉集の代表的歌人の一人として有名な「持統天皇」。女性天皇である彼女は、大化の改新を行った天智天皇(中大兄皇子)の娘です。彼女が残した有名な雑歌が次の歌です。
原文「春過ぎて 夏来るらし白妙の 衣ほしたり 天の香具山」
現代語訳「いつのまにか春が過ぎて、夏がやってきたようです。真っ白な衣が干してありますね、天の香具山に。」
当時、夏になると白い衣を干す習慣があったようです。白い衣が風に揺れて香具山に干されている情景を詠んだ、季節感溢れる作品です。大和三山のひとつである「香具山」には、その昔、天から人が舞い降りたという伝説が残っています。天の香具山と呼ばれているのはそうしたいわれがあったからです。
季節の移ろいを、繊細な心と瞳で見つめている万葉人の代表的な作品と言えるでしょう。
現代につながる万葉歌の想い
万葉集の中には、持統天皇が詠んだ「自然賛歌」以外にも「男女の恋愛」、「親子の情愛」や「反戦」など日々の暮らしや人々の喜び・悲しみが歌われています。特に、額田王(ぬかたのおおきみ)を代表とする恋愛の情熱を歌った作品がある一方で、「防人歌」呼ばれている反戦歌も数多く掲載されています。
原文「唐衣(からころも) 裾に取りつき泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして」
現代語訳「唐衣の裾にすがりついて泣く子どもたちを、防人として出兵しなければならないために置いてきてしまったなあ。母親も死んでしまっていないというのに。」
防人とは飛鳥時代から平安時代にかけて、民衆に課せられていた税の一つ「兵役」です。当時、国防の重要拠点である北九州地域を警護する重い兵役が、一般の民衆を苦しめていました。戦乱や盗賊、流行病(はやりやまい)で疲弊していた一般の人々の中には、たとえ母親がおらず、世話をする家族がいなくても、出兵しなければならない境遇の民が多くいました。
いったん兵役に駆り出されれば、再び無事に故郷へ戻ってこられる確証など何もありません。その間、幼い我が子たちはどう暮らしていけば良いのか、そのめどさえ付きません。すがり付いて泣き叫ぶ我が子らを、振りほどきながら家を旅立たなければならない父親の心境とは、一体いかなるものだったのでしょう。
税の重さに苦しみ、戦争に駆り出される一般民衆の哀しみは、万葉の昔も現代も変わりがないのです。平和な時代にこそ、人々の幸せは育まれることを教えてくれます。
3 万葉集に込められた願い
万葉集に込められた作者の「思い」や「ねがい」は、時空を超えて現代につながっています。代表歌3首を通して、ご紹介します。
志貴皇子と自然賛歌
原文「石(いわ)ばしる たるみの上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも」
現代語訳「岩の上のほとばしる滝のほとりのさ蕨が、萌え出る春に、ああなったことだ。」
美しい自然美を詠んだ名歌の一つ。自然破壊や環境問題が取り沙汰される現代にあって珠玉の一首です。作者である「志貴皇子(しきのみこ)」は、万葉集の代表的歌人のひとり。
父は天智天皇で、その第七皇子。壬申の乱では死を免れ、万葉集に6首作品を残しています。皇位こそ縁はありませんでしたが、類い希な教養人として生涯を過ごします。しかし、彼の死後54年後、息子である「白壁王(しらかべおう)」は、「光仁(こうにん)天皇」として即位します。
飛鳥時代から奈良時代の初めにかけて活躍した志貴皇子。実は、彼こそが現在の皇室の祖先です。
新しい天皇が即位し、元号が令和へと変わった今日、不思議な縁を感じます。
山上憶良「我が子への情愛」と現代の闇「虐待死」
原文「銀(しろがね)も 金(くがね)も 玉も 何にせん まされる宝 子にしかめやも」
現代語訳「銀も金もどのように勝っている宝石でさえも、子どもにおよぶことなどあるだろうか。」
作者の「山上憶良(やまのうえのおくら)」もまた、万葉集の代表的歌人です。遣唐使の一員として、唐に渡るほど優秀な官僚であった彼は、この歌以外にも、親子の情愛を詠った有名な歌が数多く残されています。
親による「虐待死」という悲惨な社会問題がクローズアップされている現代。どんな時代にあっても、子は親の宝物のはず。動物でさえも、我が子を見捨てる親はいません。その一方で、悲劇は繰り返されています。
悲惨な虐待問題を繰り返さないためにも、万葉人である山上憶良が残してくれたこの歌を、あらためて私たちも読み直すべきではないでしょうか
情熱の歌人「額田王」と男女の恋愛歌
原文「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
現代語訳「あかね色を帯びる、あの紫の草の野を行き、その御料地の野を行きながら。野の番人は見てはいないでしょうが。あなたが袖をお振りになることを。」
万葉集を代表する女流歌人の一人が「額田王」。彼女は当時「天智天皇」の後宮に仕える妻の一人です。その額田王に向かって天皇の弟であり、もとの夫である「大海人皇子」(後の「天武天皇」)が、御料地で堂々と袖を振って求愛しているのです。
「袖を振る」という行為は、当時「恋しい人の魂を呼び寄せる」一種の呪式です。今は兄である天智天皇に嫁いでいようとも、変わらずに求愛する姿が描かれています。公然の秘密であるとは言え、実に大胆な前夫の不倫行為は、やがて「壬申の乱」という大乱につながります。
いつの時代も、男女の恋愛は複雑です。時には国を傾かせるほど、深刻なスキャンダルへと発展しかねません。額田王への断ちがたい思いが、兄帝の遺児「大友皇子」を自害させる一大クーデターを、天智天皇に引き起こさせたのです。
男女の純愛は、いつの時代も変わらないほどの激しさを持っていますね。
まとめ
万葉集に残されたその世界観や、普遍的な価値観は、千年の時を超えて私たち日本人の心に響いてきます。男女の恋愛や親子の情愛もしかり、自然への畏敬や美しさを讃える心、反戦と平和への恒久の願いなど様々です。
平成の時代から令和の時代へ、時は移り行きます。こうした時代の狭間の中で、私たち日本人は、その心の有り様をあらためて問い直して良いのかもしれません。万葉びとが私たち子孫に、伝えようとして残してくれたその大切な「想い」。その想いを、もう一度立ちどまって見つめ直して見ませんか?