今も昔も、社会は文章の書き手に対して寛容ではありません。書いて暮らすことは常に貧しさと同居しており、時として誰かを傷つけることすらあるのです。もしも文章が勝手に走り出して誰かを傷つけたら…そんな恐怖でいっぱいになり、書けない人もいるのではないでしょうか。
しかし、それでも私たちは書かなくてはなりません。書くことで自分の心を解放する必要があるのです。それはなぜか?これからの時代、文章を書く能力は欠かせません。
えっ?次の時代はxxでしょ?
そんなふうに思って文章を捨てる人もいることでしょう。しかし、あなたが文章を見捨てても、文章があなたを見捨てることはないのです。今日は、文章を書くことでもたらされる効果、そして文章を書いて暮らすのに必要な、心の詩人について紹介します。
文章の民主化
「書いて暮らせるのであれば、貧しい生涯でも構わない」そんなふうにすら感じている書き手が大勢いる世の中で、書いて暮らすのは至難の業です。それでも、いまは人類史上かつてないほど、文章の書き手にとって恵まれた時代ではないでしょうか。
他でもないインターネットで文章を書いて発表できるのですから。これが昔は、偉い人に認められ、何か賞をもらい、編集の方に認められなければ書いて暮らせなかったものが、インターネットの登場によって、直接読者と対話し、つながれるようになったのです。
これは文章を書きたいと思う人にとって、願ってもない環境です。ただし、そのためには、権威から、自分の側に大樹を求める気持ちから、本当の意味で解放されなければなりません。いま、偉い人に認められたい、賞が欲しい、顧客に認められたい、そんなふうに感じていませんか?そんな気持ちは捨ててしまいましょう!
インターネットは誰にでも開かれています。つまり、文章を書いて誰かにそのまま届けることができるのです。偉い人からの承認を拒否するという精神こそが、反権威主義、真に「インターネット的なもの」の模範となります。
文章が民主化されたことで、認められたいという見栄が引き剥がされ、私たちはひとりひとりのむきだしの自己が試されるようになったのです。
自分のことから、小さく、書き出す
でも書き方がわからない、そんなときは、自分のことから書いてみましょう。何色が好き?紅茶にはミルクを入れる?窓の外を最初に見たときの景色は?そんなふうに自分の心から書いてみると思わず筆が進み出します。
そうしたら、もうこっちのものです。次は身の回りのことを小さく書いてみましょう。熟れすぎたバナナ、奮発して買ったマグカップ、背表紙の色順で並んだ本棚。身の回りのものに価値を与えてみましょう。自分のことだけ書いているのは日記作家ですが、他者に、そして世界に価値を見いだせたら、あなたはもう立派なウェブの書き手です。
世の中について書けるようになったとき、人は自分の殻をやぶって文章によって成熟します。書くことは心を自分の手に取り戻し、自分らしさを見つける手助けをしてくれます。
何気ない日常にいいねを
ところで、子供の頃は夏休みの日記が嫌でたまらなかったのに、大人になった今では何気ない日常に「いいね」がほしいと思うことはありませんか。なぜでしょうか。それはあなたが人生のボコボコ道を通じて、文章の真髄に少し近づいたからです。
文章を書いて暮らすには、まず思い切って大胆に書かなければなりません。書き出しに時間がかかる?それはどの書き手も同じです。しかし、早く書き出す方法があります。それは、心の中にいる編集者や校正担当をおっぱらうことです。
「私なんかに書く資格があるのだろうか」「こんなことを書いたら笑われない?」
そんなふうに、心の編集者は他でもないあなたにダメ出しをしてきます。しかしそんな彼らをどこかに追い払って、情熱的にペンやキーボードを操り、全身全霊で勢いよく書いてみましょう!
心の中の詩人を召喚するのです。書くことは心を高揚させ、子供の頃に戻してくれ、同時に怒りや悲しみから自分を解き放ってくれます。気分のおもむくまま、体と道具の向かうままに、文章を書いてみましょう。
心にエンジニアを雇おう
しかし、心に詩人だけを棲み着かせるわけにいかないのが、文章の神様のいじわるなところです。心のおもむくままに文章を書いても、誰にも届かないかもしれない。厳しい最初の読み手に拒否されるかもしれない。そんなときは、もうひとり心に雇い入れる必要があります。
それが心のエンジニアで、自分が情熱をこめて書いた荒削りな文章を、ヤスリでカドを落としていきます。何度も何度も読み返し、表現をまるくし、トゲトゲを取って、なめらかにしていくのです。
繰り返し読む。これほど文章の品質を高めてくれるものはありません。たとえあなたの書いた文章が勝手に走り出して誰かにぶつかっても、カドのないまるい文章であれば、それは誰かを傷つけるにはいたらないばかりか、仲良くなることだってできるのです。
詩や文学の語源
文章と仲良くなり、書いて暮らすには、詩人だけではならず、同時にエンジニアだけであってもならないのです。詩人の情熱で書いたあとは、エンジニアの冷静で文章を構築しましょう。
詩人とエンジニアを心に両立させるのは、実はそれほど難しくありません。ポエムの語源は古代ギリシア語のポイエテスで、それは現代的な意味で詩人をさすのではなく、本来は「作るもの」を意味していました。つまり詩人と技術者の間に大きな差異はなく、古くより人は技巧的に詩を書いては、相互に評価しあったのです。
同時に、文学の語源もまたラテン語のリッテラであり「書かれたもの」を意味します。すなわち、この文章もあなたの詩も文豪の小説もスマートフォンの小窓に書かれた散文もつぶやきも、すべて文学です。だから、何を書いたっていいのです。
心の詩人とエンジニアを呼び出して、さあ、書いてみましょう。
愛だけでは足りない
そして文章には不思議な力が宿っているので、人生に訪れる物心双方の危機から自分を救い出すことができます。書くことで自分を窮地から救い出した人は大勢います。
しかし、注意深くならなくてはなりません。うまくいかないことが多くて悠然と引きこもり、世界を拒否することでしがらみから解放されたいと願う人でも、憎しみの果てに文章を書いてたら、いつかそれは書き手を飲み込んでしまいます。
ところが、愛だけでも人生を埋めるには足りないのです。その救いがたい欠乏こそが、文章を前に進めてくれます。誰かとの別れ、培われた深い孤独、心身の傷跡など。
最後に
文章を書く本当の試練は、書くことそのものにあるのではなく、一文、一行を通じて社会の一員として再びなることだと考えられます。すなわち、良き市民であり、良き家庭の人になること。
だからこそ、書くことは私たちに強烈な体験と孤独を強いて、書き手をひとりの裸の人間へと還元します。その覚悟を決めたとき、書いて暮らすという生活は実現するのではないでしょうか。