子供の頃から私はとても優秀だった。
成績は常に学年トップクラス。
学校の名誉になるからと、難関私立中学校を受けてほしいと、校長先生から直々に頭を下げられたほどだ。
器用で、何でもできた。
何かに苦労することなどなかった。
私の人生は、歩きやすい舗装された真っ直ぐな道だと思っていた。
歩きやすすぎて、それがとても有難いことなのだという認識がなかった。
時代がよかったこともある。
私が社会人となった時、世間は好景気だった。
誰もかれも、就職には困らなかった。
企業説明会に行けば、高額な商品のお土産が渡された。豪華な食事つきの場合もあった。
事前研修という名目で、二泊三日の温泉旅行に連れて行ってもらえたりした。
今となっては信じられないことが、当時は普通に行われていた。
その中で、私はますます調子に乗った。
誰もが知る大企業に就職したのに、深く考えもせず、たいして我慢もせず、勤めて半年ほどで転職した。
「あんな大手を辞めるなんてもったいない」
と人から言われたけれど、転職先もまた、引けを取らない大企業だったのだ。
簡単だった。
どこでも私を欲しがった。どこでも選び放題だった。
嫌ならまた、別の所へ転職すればいいだけ。それが可能な時だった。
結局そこも三年ほどで辞め、また別の大企業に転職した。
そこには七年ほどいた。
その間に、トップセールスを何度も出した。
ノウハウを聞きに、他店から色んな人が私のもとにやってきた。うんと年上の人も来た。
その度に私は胸を張って、とうとうと持論を述べた。
皆がそれをメモに取り、大きく頷く。
私の実績に、皆がひれ伏した。
その後、家庭の事情でそこを辞め、随分と小さな会社に入った。
そこを選んだのは、通いやすかったことと、好きでやってみたい業種だったからだ。
もちろん、即採用だった。
当然だ。そう思った。
そのままずっと、そこに勤め続けるつもりだった。
けれど、できなくなった。
歩きやすかった道が、傷んできたのだ。
足元を取られる。どんどん歩きにくくなってしまった。
経年劣化。私の道にもそれが起こった。
それでもまだしばらくは勤め続けた。
とても好きな仕事だったし、長く勤めたことで愛着もある。
何度も転職してきた私だけれど、本来は一つの会社でずっと、という昭和的な考え方もあったから。
けれど劣化してしまった道は、どんどん悪くなっていき、私は再び転職することにした。
それを決意できたのは、あの、トップセールスを誇った会社の求人を見つけたからだった。
懐かしいあの会社。今の私は身軽な身。
全国のどこの支店でも勤務できる。
どこでだって構わない。また私の力を存分に発揮しようと思った。
エントリーはできた。
同時に私は、現職の退職準備を始めた。
十四年も勤めたのだ。引き継ぎにはある程度時間がかかる。
面接の日が決まってから、退職の意を上司に伝えた。
面接は最寄りの支店で行われた。
履歴書と職務経歴書を引っ提げて、私は面接に臨んだ。
面接官は私より若かったから、昔の私を、私の伝説を知らなくても仕方ないと思った。
本当は心の中で、
「ああ!あなたがあの有名な」
というリアクションを期待したが、そんなものはなかった。
ただ、差し出した私の履歴書と職務経歴書を見て、
「素晴らしい経歴ですね」
とは言ってくれた。
「それほどでも」
と口では言ったが、心の中では、
「当然でしょ」
と思っていた。私を誰だと思っているのだ。
鼻息荒く、前のめりで私は面接を受けた。
気圧されたせいか、文句のつけようのない経歴のためか、話はどんどん良い方向に進んだ。
まずは一般社員から始まること。
採用後には東京で三週間の研修があること。
その際はホテルを用意すること。
その間は出張費も出ることなどが説明された。
当時とは随分体制も扱う物も変わっているから、
「研修後、一度僕が主催する勉強会に参加してみてください」
とも言われた。
手応え十分な面接が終わる時、現在の会社概要も渡してもらった。
「お返事は本社からで、四・五日以内にはできると思います」
との言葉をもらって帰路についた。
受け取った会社概要が採用通知のように思えて、足取りは軽かった。
年明けからは心機一転。新しい扉が開くものと思っていた。
手応え十分の面接のあと、私は退職準備を急いだ。
手続きも急いでもらった。同僚たちにも退職を伝えた。
そうして本社からの返事を待ったけれど、一向に返事が来なかった。
四・五日と言っていたのに、一週間たっても返事は来なかった。
退職する日がどんどん迫るのに、待てども待てども返事が来なかった。
どうなっているのか。
不安がどんどん焦りをよんだ。
もしかして連絡先を間違えて書いたのか?何度もそう思って、問い合わせようかと思った。
でも、それはしなかった。
ネットで見たのだ。
友人にも言われたのだ。
「返事がないのが、返事」だと。
まさか。そんなまさか。
そんなはずはない。着信のない携帯電話、何も入っていないポスト。不安で押しつぶされそうだった。
面接から三週間が過ぎて、それはポストに入っていた。
きちんとした封書で返事が来た。待たされすぎたことへの不満より、やっと返事がきたことへの安堵の方が大きかった。
封書の感触は薄かった。ということは、辞令の紙一枚だなと思った。
詳しくは初出社してからなのだろうと思って、丁寧に封書をハサミで開けた。
予想通り、紙が一枚入っていた。
しかし中の文言は、待ち焦がれていた内容と正反対のものだった。
「慎重に審査を重ねた結果、貴殿の意に添うことができず、誠に遺憾ながら」
手が震えた。ショックで手が震えて、その場にヘタリこんでしまった。
まさかの『不採用』通知だったのだ。
「嘘だ!そんなはずない!」
何度も何度も文面を読み返した。
不安が募りすぎて、私に悪い夢を見せているのだと思った。
けれど、何度読んでも『不採用』の文字が鮮明に目に飛び込んでくる。
どうしようと思った。
採用されることに何の疑いも抱いていなかったから。
こんなに待たせておいての不採用。
なぜなのか。理由が分からかなった。
この私が不採用になるなんて。しかも、過去に輝かしい成績を残している私なのに。
退職の日は、五日後に迫っていた。もう撤回できない。
そもそもプライド的に撤回したくない。
不採用という事実を受け入れられないまま、そのことを現職場の誰にも言えず、私は退職の日を迎えてしまった。
本来なら、年明けまでゆっくりと羽を伸ばせるはずだったのに、私は退職した次の日から、転職活動をする羽目になった。
不採用通知を寄こした会社を恨みながら、前職に未練を残しながら、転職活動をした。
毎日履歴書と職務経歴書を書き、あるいはネットでエントリーした。
しかし、そもそも面接までなかなか行けなかった。
何よりもショックだったのは、派遣会社にすら登録できなかったのだ。
電話口で、若い女性から言われた。
「ご年齢的に、弊社での登録は難しく」
ハッとした。
年齢。そう、年齢。
この時になって、やっと自覚した。
私が今、何歳になっているのかを。
あの、苦も無く大手に転職出来ていた時、私はまだ二十代だった。
いま私は四十代半ば。
何ということだろう。私の感覚は、ずっとあの当時のままだったのだ。
私自身の劣化は進み、世間はどんどん進化している。
今の私に市場価値がない事を、私は全く理解していなかったのだ。
登録すらできない、面接すらしてもらえない現実は、ひどく私を苦しめた。
あんなに歩きやすかった私の道は、何もメンテナンスしなかったこともあり、酷く荒れた道となってしまったのだ。
気づくのが遅かった。自覚が足りなさ過ぎた。
結局二か月近く仕事を探して、今の会社に契約社員として何とか勤められている。
四か月に一度、契約更新がある。その度に、シビアな事を言われたりする。
同年代の同僚たちと、そのことで愚痴を言い合う。
「辞めようかな」
と口にする者もいる。
その度に、誰かが言うのだ。
「この年齢で、仕事なんてないわよ」
その場にいる全員が、深く頷く。もちろん私も。
私は私を過大評価していたのだ。
あの頃簡単に転職できたのは、好景気がもたらしたもの。
それをいつまでも引きずり、勘違いしてしまった。
大したスキルもない、年だけ重ねた今の私には、そもそも需要がないのだ。
私は、私を凄いと思っていた。
何でもできると思っていた。誰もが私を求めると思っていた。
けれど実際の私は、その他大勢の中の一人。
アピールポイントは何もない。
輝いていた私はもういない。何でもできた私はもういない。
何者でもない私がいま、ここに居る。
プロフィール
リオカ
百貨店や映画館勤務を経て、現在はコールセンター受付業務。
女の園で長く勤めているため、女同士の陰湿な感情に敏感。
「出る杭は打たれる」を痛感し、今はひっそりと生息中。
中学生の頃から日記を書く習慣があり、独り語り的な文章を書くのが好き。
いつか作家に、という中二病的妄想を捨てきれずにいる