「魔法の値段」

三十六歳の時、私は大学生の男の子に恋をした。

十七歳も年下の男の子。

こうして振り返ってみると、あの頃のことが夢のように思える。
いや、実際に私は夢を見ていた。
とても良い夢。私に輝きと甘美な思いを与えてくれた日々・・・

彼は、学生バイトとしてやってきた。
上司から、「研修を頼むよ」と引き合わされた時、私は戸惑った。
彼を見て戸惑った。
若すぎる。何もかもが若すぎる。
「よろしくです」と言って、ペコンと頭を下げる挨拶の仕方からして、相容れないものを感じた。

もっと年齢の近い人を付ける方が良いと訴えたけれど、逆に、「みっちり鍛えてくれ」と託されてしまった。
ため息が出たけれど、やるしかない。
マンツーマンでの研修がはじまった。

初めこそ、とんでもない奴だと思っていたけれど、十九歳という年齢ゆえか、彼は何でも素直に受け入れて吸収していった。
厳しく接しているはずの私に、いつも笑顔を向けてきた。
二か月もすると、仕事のほとんどを覚え、なおかつ要領よく進めるようになっていた。
小憎らしいくらいに。

その頃になると、彼は職場でアイドル的な存在になっていた。
イマドキの整った顔。
見上げるくらいには高い身長。
ずっとテニスをしていたというだけあって、細見のわりに広い肩幅。
職場にいる若手女子たちはもちろん、私に近い年齢の女性たちも彼を可愛がった。

そんな彼を見るにつけ、私は何故か反発を覚えた。
「私だけは甘くするまい」
妙な意地が芽生えていた。

そう思うこと自体、すでに私も彼を意識していたのだろう。
女性が大勢の職場。男性は貴重だ。若くてイケメンとなるとなおさら。
周りから可愛がられる彼の姿を見るにつけ、私の心はささくれ立った。
誰にでも愛想の良い彼が憎たらしく思えた。笑顔の安売りをしている気がした。
それはただの焼きもちなのだと、あの頃は気づかなかった。

マンツーマンで研修をしているから、勤務時間中は常に彼と一緒にいる。
そうすると、彼の中身、性格が少しずつ知れるようになる。
厳しくしようと決めていた私の心が、いつの間にか彼の事を、可愛いなと思うようになっていった。

ちょうどそんな時だった。
仕事でトラブルがあり、私が残業することになった。
バイトの彼を残すつもりはなかったから、先に帰るよう言ったけれど、「手伝いますよ」と言って、最後まで残ってくれた。

終わったのが二十二時過ぎ。
終われたことの安堵感と、二人で片付けたことの連帯感が相まって、笑い合ってハイタッチした。
その高揚感が、彼に言わせた。
「飯、行きません?」

私は大きく頷いた。何のためらいもなく。
こんなに遅くまで手伝わせたのだ。お礼にご馳走したい気持ちでいっぱいだった。

普段ほとんど飲まないのに、生ビールを頼んだ。
乾杯して飲んだその一口は、とびきり美味しかった。
入った店は居酒屋だったけれど、彼が行かないような創作居酒屋。
オシャレな内装や手の込んだ料理に彼はいちいち感動していた。
そして、よく食べた。その食欲に若さを感じて、眩しかった。

その夜、彼とたくさん話をした。
仕事ではしないような話。
彼の学校でのこと、テニスのこと、家庭のこと。
あまり恵まれていない家庭環境に、ほんの少し心がざわついた。
でも彼はとても明るくて、偉いなと思った。
真っ直ぐな視線と透明な笑顔。
見ていて飽きなかった。

私もたくさん笑った。
怖いお局の私はそこには居なかった。
彼が私を見て笑うから、私もいつもの私を忘れて笑った。
盛り上がり、電車はとっくになかったから、タクシーを拾った。
ガンガン上がる深夜料金メーターを、そわそわしながら見ている彼が微笑ましかった。
「大丈夫、私がいるわ」
心の中で呟きながら、先に彼を降ろした。

「寄っていきますか?」
もちろんそんな事は、言われなかった。
彼を降ろした後、ルームミラーから運転手の興味津々な視線を感じたけれど、気にならなかった。楽しい時間を過ごせたことの満足感が私を満たしていた。

それは彼も同じだったらしく、あの日以降、金曜日の夜は、二人でご飯を食べに行くようになった。
帰り際にいつも彼が言うのだ。
「飯、行きません?」

それがいつの間にか、
「飯行きましょう」
になり、それがさらに、
「いつもの所で」
に変わるまで、そんなに時間はかからなかった。

彼は大学生で一人暮らし。
実家からの援助もない。だから当然お金もない。
どこに行くにも、何を食べるにも、支払いはすべて私。
それもまた、苦ではなかった。むしろそれすらも心地よかった。
私の経済力、人生経験、知識。私と居ることのメリットを感じてほしかった。
彼にとって『特別』な存在でありたいと願うようになっていった。

毎週金曜日の夜に一緒に食事に行くようになり、そのあとカラオケで締めるようになって、彼との距離はますます縮まった。
年の差十七歳。お互いに、歌う歌が分からない。
私の歌は古すぎて、彼のは新しすぎた。
「知らね~」
と彼が言い、
「歌詞が意味不明!」
と私が言って笑った。
それでもお互いに少しずつ相手の領分の歌を覚えたり仕入れたりして、カラオケは毎回盛り上がった。

恋には流れがある。心を刺激する流れが。
その流れは絶妙なタイミングでやってくる。
その日も食事のあとカラオケに行った。金曜日の夜で、混んでいた。
待ちが何組もある中で、狭い部屋で良いならすぐ案内できると言われた。
二人だし、待ち時間を考えたら、狭くでも良いと思った。
通された部屋は本当に狭くて、二人掛けのソファーしかなかった。
ピッタリと密着して座った。彼の体温を感じる近さだった。
すでにお酒も入っていた。何曲かは歌ったけれど、そのあとは歌わなかった。
彼の顔が近づいて、私も顔を近づけた。
とても、とても柔らかな唇だった。
軽やかでソフトなキス。
何度も何度もそれを繰り返し、手を繋いで店を出た。

彼の部屋に向かいながら、
「いいの? いいの? 私でいいの?」
そう何度も心の中で思った。
でも口には出さなかった。言ってしまったら、彼が正気に戻りそうだったから。
この魔法が、とけてしまいそうな気がしたから。

ただ、いざ彼の部屋に入ると、途端に気後れした。
線の崩れてきた私の身体をさらすことに怯えを感じた。申し訳なく思えた。
下着もよろしくない。
あれやこれやと考えすぎて、彼の部屋の隅で正座したのを覚えている。
電気を確実に消してもらった。暗さを味方にしたかった。
暗さの中で、彼を感じた。
若く張りのある肌は陶器のように滑らかで、細いと思っていた身体は意外にもがっしりとしていて、少年だと思っていたけれど、もうしっかりと大人の男なんだと思った。

質素な彼の部屋で朝を向かえた。
そのまま二日、彼の部屋に泊まった。だから服を買いに行った。私の服と彼の服。
彼の服を買うのは楽しかった。
何を着せても似合う彼。どうせなら、上質の物を着せたかった。
今まで彼が着たことのない服を選んだ。
普段着ている物とは一桁違う値段の服に彼は目を丸くしたけれど、それすらも愛しかった。
「任せて。私に任せて」
彼に合わせて私もいろいろ買った。今度は彼が選んでくれた。
もっと明るい色を着ればいいと。似合うよと言ってくれた。
少しでも彼と釣り合うように、親子に見られないように、自分の物もたくさん買った。

この時私は気づいたのだ。
私には魔法が使える、と。私は魔法の言葉を知っている、と。
この日から私は、魔法を使い続けた。魔法の言葉。

「カードで」

これさえ言えば、何でも手に入った。
彼の服、私の服、鞄、靴、化粧品、アクセサリー。
彼を着飾り、私を着飾るために、私はどんどん魔法を使った。
エステにも行った。肌と身体を磨いた。
彼のために。私と歩いていて、彼が恥をかかぬように。

あの頃、一番避けたかったのは、親子に間違われること。
十七歳の年の差は、現実にはそうであってもおかしくはないから、油断できない、手を抜けない。
彼と過ごしていた間、私は周囲が驚くほど若々しく、そして綺麗になっていた。
輝けていたと自分でも思う。
本当に魔法にかかったみたいだった。

ただ、魔法は永遠ではなかった。
シンデレラの魔法が十二時でとけたように、私の魔法にも十二時の鐘が鳴ってしまった。
計算外だったのは、彼が予想に反して私に一途でいたことと、彼との関係が長く続いてしまったことだった。
短命だと思っていた恋は、二年以上も続いた。
その間に、私は魔法を、カードを使いすぎてしまったのだ。

総量規制が施行される前だったから、三枚持っていたカードの限度額は、それぞれが百万円を超えて使えた。私はそのどれもを限度額いっぱいまで使っていた。
月の返済ができなくなり、すべての残高をリボ払いに切り替えた。
リボ払いにしても、月の返済額が八万円を超えてしまったのだ。
「もう返せない。もうこれ以上は無理」
十二時の鐘が、高らかに鳴った。
耳を塞いでも容赦なく鳴り響く、魔法がとける鐘の音。

あの夜、食事が終わった時、切り出すつもりだった。もうお金がないと。
けれど、彼が先に告げてきた。
就職が決まったと。
来月から東京に行くのだと。

耳の奥がキーンとした。
店のざわめきが聞こえなくなった。
就職?
その言葉を理解するのに時間がかかった。

十九歳で出会った彼は、すでに二十一歳になっていて、社会人となって飛び立つ日が来ていたのだ。
そんなに長く一緒にいたのかという驚きと、一緒に過ごせる時間にはタイムリミットがあったのだという悲しみが押し寄せてきた。

東京に行ったら、もうお別れだ。
彼には輝く未来がある。
王子はそこで若く美しい姫たちと踊るのだ。
魔法がとけた私のことなど、きっとすぐに忘れるだろう。

そう思ったら、声に出てしまった。
「東京か。遠いね」
と言ったら、
「遠くないよ。新幹線ですぐだし。飛行機ならあっという間だよ」
と言って笑った。
「距離のことを言ったんじゃないのに」
その言葉を飲み込んで、
「そうね」
とだけ言った。
「会いに来てくれる?」
とも、
「会いに行くわ」
とも言えなかった。

十二時の鐘の音が聞こえる。
カードの残債と、彼の東京行き。私の魔法は見事にとけた。

最後の晩餐として、無理して払おうとした私の手を、彼は抑えた。
「たまには俺が」
そう言って、払ってくれた。見上げた彼の横顔は男らしくて、
「俺」
と言うのもサマになっていた。

「引っ越し準備で散らかってるけど」
と言いつつ、いつものように部屋に誘ってくれたけれど、
「今日はよすわ」
と言って、外で別れた。
行けば、未練が募る。
もう十二時の鐘は鳴っているのだ。
私は急いで階段を駆け下りなければならない。

そっと私の頬に彼が触れて、初めての時のようなソフトなキスを一つくれた。
手を振って歩き出した彼の背中を、私はずっと見つめていた。
見えなくなっても見つめていた。

彼と別れたあと、私は毎月の返済に追われた。
八万円以上が返済に消えたけれど、リボ払いだからなかなか残債が減らない。
それはまるで、魔法を使った代償のようだった。
毎月やりくりに苦労しながら、同じように魔法によって舞踏会に行けたシンデレラの和名が『灰かぶり姫』だったなと思った。
返済に苦労する私は、まさに灰かぶりだと思った。

一つ大きく違うのは、私の魔法には値段がついていたことだ。
それと、王子が迎えには来ないこと。

あれから十年。
彼はいま、どうしているだろう?
彼が東京に行ってすぐの頃は、よく連絡をくれた。
私が恋しいとか、寂しいといった内容から、楽しい内容が増えていった。
それと比例して連絡がくる頻度が減り、いつしか途絶えてしまった。予想通りに。

私からは送らない。怖くて送れない。
送ったメールが、エラーで返ってくるであろうことが怖いのだ。
その文字を見てしまったら、彼が完全に消えてしまう。
「元気ですか?」
と打ち込むけれど、送信ボタンはいつも押せない。

十年もたつのに、私はアドレスと電話番号を変えられない。
ガラスの靴の片方を抱くように、いつか、もしかしたら。
そう思うと変えられない。

プロフィール
リオカ
百貨店や映画館勤務を経て、現在はコールセンター受付業務。
女の園で長く勤めているため、女同士の陰湿な感情に敏感。
「出る杭は打たれる」を痛感し、今はひっそりと生息中。
中学生の頃から日記を書く習慣があり、独り語り的な文章を書くのが好き。
いつか作家に、という中二病的妄想を捨てきれずにいる。